前田:
去年の今頃、フラムさんが「白州をやるぞ」と言い出して、その暮れに田中泯さんと石原淋さんをplan-Bにお訪ねし、今年3月にお住まいである山梨県「桃花村」にお伺いして、そこから少しずつ準備が始まりました。半年にも満たない準備期間で進めてきたわけですが、本日、無事、開幕を迎えられてほっとしております。
まず初めに、なぜ市原湖畔美術館で白州展を開催するのか、フラムさんお話ください。
北川:
現在、市原湖畔美術館はアートフロントギャラリーが指定管理を受託しております。市原市から美術館がある南市原周辺で芸術祭をやりたいと相談があり、やり取りをしている中でこの建物を改修しなければならないという話から、伊東豊雄さんが審査委員長となってリノベーションのコンペを行い、美術作品が展示できる空間を作りました。そして、2014年に「いちはらアート×ミックス」という芸術祭を開催しました。アートフロントギャラリーは、1996年から始まり、2000年に第1回目となる「越後妻有アートトリエンナーレ大地の芸術祭」のディレクションを行っています。その当時は、白州のことはほとんど知らず、行っても何をやっているかがわかりませんでしたが、「大地の芸術祭」をやっていく中で、白州は僕らよりもずっと先に農業をベースに踊りを起点としてやろうとしていたことが分かりました。85年から約25年やっているということがすごい。いろんな意味で資料がまとまっておらず、それをやるのは美術館の仕事だろうと思っていました。
ただ、形にならないだろうと思って踏ん切りがつかずにいたところ、いろんな縁が重なり、実行することになりました。まずは、越後妻有里山現代美術館 MonET(「大地の芸術祭」主要施設)で名和晃平さんに仕事をやっていただいた縁で、インタビューをしました。その時、大学生の頃から10年近く白州に通っていた、言ってみれば「こへび隊」のようなことをしていたという話をされました。また、その頃、今年の「大地の芸術祭」に向けて中谷芙二子さんにMonETのプールで霧の彫刻をやっていただきたいとお願いをしたら、それならば、田中泯さんに踊っていただきたいということがありました。巻上公一さんには、今年の「大地の芸術祭」でカバコフの《手をたずさえる塔》で演奏会をやっていただきました。カタログに書きましたが、私は、物と人間の関係を表す方法が美術だと思っていますから、名和さんがやられている仕事はそのど真ん中をやっていると思っています。名和さんにディレクションをやっていただければ、白州展はなんとか形になるのではないだろうかと思ったわけです。田中泯さんにも協力していただいて、資料も全部出していただいて、皆さんが白州をオープンにしていきたいという気持ちがあったからこうして形となりました。
今、白州が何をやろうとしていたか、どういう風になったかという出発地点をやったわけで、これから白州の意味が広がっていくきっかけになりたいと思っているのが今回のカタログです。この先、いろんな人たちが自分の中に持っている白州体験を語ると思います。それが、今後、この世の中ではすごく大きな意味を持ってくるだろうと思っています。
皆さんのおかげでできました。ありがとうございました。
前田:
最初、資料がなく、インターネットでも見つからず、美術図書館に行ってやっと白州のガイドブックを見つけ、それをコピーすることから始まりました。なんで資料がないんだろうと思っていましたが、泯さんが何も残さないとおっしゃっていたことを名和さんの文章で知りました。昨年の12月の暮れに泯さんのところを訪ねてこういう展覧会をやりたいとお話をしてOKと言っていただいたわけですが、今考えるとそれはすごいことだったんだなと思っています。
泯さんは、この半年余り私たちが準備をするのに伴走していただきましたが、今日、展覧会をご覧になりまして、どのように思っていらっしゃるのでしょうか。
田中:
残さないって、パッケージしちゃおうと思っていたわけでも、隠そうとしていたわけでもなく、誰も言い出さなかっただけの話です。ものすごい数の人たちが関わっていたわけですけれども、これまでこういうことが起きませんでした。言葉として自分の中に生まれたこと、そういうものが実感と共に自分の中で生き続けているということがありまして、なにも終わっていないという感覚が強いです。今回、こういうお話がなければ、このまま消えて行ったと思います。僕自身はそれでもいいと、今でも思っています。
この展示、ポスターや映像、作品を見たりして、感じたことや、当時に話したこととか、誰がいたとか、ものすごい量のものが今でも押し寄せていまして、全然、整理がつきません。その整理をすることをしたいと全く思わない、それを言葉で上手く言う気もないんです。
展示もすごいんです。ひとつひとつが、かつてあったということでは済まされないような存在を放っていて、とっても驚いています。だからこそ、僕自身は新しい感覚に襲われていてやべぇなという感じで今おります。
前田:
名和さんは、18歳の夏から白州に通われていたわけですけれども、今回、白州展のキュレーションをされるということで、どのような思いで臨まれたのでしょうか。
名和:
今回のきっかけは、フラムさんとのトークでした。昨年、越後妻有里山現代美術館 MonETで《Force》という、天井から床めがけて黒いシリコーンオイルが雨のように降り注ぎ続けるインスタレーションを制作したのですが、その時のトークで、白州が話題に上りました。白州は、僕が学生時代に芸術を学んだ、衝撃の体験でした。当時、美大生だった僕は「毎年、夏になると、アーティストや建築家、ダンサー、ミュージシャンといったさまざまな人たちが集まって、キャンプをしながら面白いことをやっている」という話を聞いて、京都の仲間を誘って行ってみたのです。白州には「美術家の家」というのがあって、今回も出展されている高山さん、榎倉さん、剣持さん、遠藤さん、原口さんといった作家さんたちが生活していらっしゃいました。僕はボランティアとして関わりながら、そうした作家さん同士の話を聞いたり、泯さんや木幡さんとちょっとでも話せたらいいなと思いながら毎年、手伝っていました。その頃の僕は、白州で体験したことが何だったのかもわからず、ただただ圧倒されるばかりでした。そして当然、それが将来、何になるかもわかりませんでした。しかしそれでも、白州の体験はずっと自分の中に残っていて、いまだに折に触れて思い出します。今は建築や舞台美術などにも関わっていますが、そうしたすべての原点に白州があるように思っています。
フラムさんに推薦していただいたものの、最初は白州の錚々たる面々を前に怖気づいていました。でも、実際に出展される作家さんに会ったり、剣持さんの「新作をつくる」という言葉を聞いたりする中で、徐々に勇気づけられていきました。特に、夏に泯さんが美術館にいらっしゃたんですが、その際に「当時の白州の作家だけでなく、もっと若い世代がいてもいいんじゃないか」とおっしゃってくれたんです。それがきっかけで、単なる過去のアーカイブではなく、白州というものがいかに今に受け継がれているのかを表現しよう、と気持ちが切り替わりました。そこで、展示の1ヶ月前ではあったのですが、当時一緒に白州にボランティアで参加していた藤崎了一さんや藤元明さんといった、僕が「白州らしいな」と思う作家に声をかけて参加してもらいました。その結果、どんどん展示が活性化して面白くなっていきました。やはり、過去と現在といったさまざまな要素が会場の中で衝突していったことで、当時の白州の混とんとした感じが展示空間にあらわれてきたのではないかと思います。
前田:
泯さんが「白州は今も続いている」と言ってくださったのが大きかったですね。始めは野外美術工作物「風の又三郎」の立ち上げにかかわった5人の作品の展示をやることは決まっていて、それから、いかに名和さんのキュレーションにしていくのかが、この2か月だったと思います。今回、名和さんと仕事をご一緒させていただきまして、Sandwichの皆さんのチームワークがとても素晴らしくて、多くの事を学ばせていただきました。昨日も夜遅くまで展示の調整をしてくださっていたわけですけれども、名和さんは白州で共同作業や共同生活をされていて、同時代、同世代のアーティストとも繋がっている、白州から生まれてきたアーティストだなと思いました。
名和:
Sandwichは2009年から運営しているのですが、これは僕個人のスタジオではなく、さまざまな人が立ち寄りながら新しいものを生み出していくプラットフォームとして構想しました。京都の宇治川沿いの長閑な農地にあって、そこに美術家や建築家、ダンサーや振付家、ミュージシャンといったさまざまな人々が来て、日々創作活動を行なっています。このようにSandwichの活動も、僕の中ではどこかで白州と繋がっています。そうした背景を伝える意味でも、今回の展示はいい機会でした。普段スタッフたちに話しても、なかなか全部は伝えられないですからね。