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「湖の記憶を語る会」開催の様子

湖の記憶を語る会

レポート2022.01.15
高滝湖ができる以前の地域についてーー集落のこと、生業のこと、祭りのこと、災害のこと、ダム建設への思いなど、当時のことを知る方々のお話を伺いながら語り合いました。

開催日時:11月16日(火)16:00~18:00
参加者:加藤清市(高滝)、小林信明(石川)、佐藤有一(田淵)、髙橋敏郎(高滝)、戸谷吉一(本郷)、平田常義(高滝)、比留川吉郎・多賀子(石神)、宮原誠一(高滝)、深山孝子・康彦(牛久)、芝﨑浩平、田村信一、西聡子(市原歴史博物館)※敬称略
司会進行:前田礼(館長代理)
前田:市原湖畔美術館は、地域に根差した美術館を目指して2013年にオープンしましたが、まだまだ地域についてわかっていないことが多く、また、地域の方々に通っていただけるような美術館にしていきたいという想いがありながらも、なかなか皆さんと繋がれる場が持てないでまいりました。今回、戸谷成雄さんの展覧会を「森と湖」をテーマとすることで、ここ高滝湖の記憶、湖の底に沈んでいった地域の記憶を探っていけないかと思い、「湖の記憶」という関連展示を企画しました。地域の皆さんにお声掛けし、写真や資料などをご提供いただき、展示を実現することができました。
まずは、今回、湖に沈んだ地域を記録していた素晴らしいお写真を提供いただいた加藤清市さんにお話しいただきたいと思います。

加藤:私は不入に生まれ、不入から出たことがありません。私の写真を見て下さり、私に写真の提供を依頼してくださった皆さまに感謝申し上げます。そのおかげで、古い写真を掘り起こすことができました。昭和40年代、50年代の写真を500枚くらいデジタル化してプリントをしました。掘り起こすのは色々と大変で、4日間くらいかかってデジタル化しました。
昔はトワイエックス、フジのSSというフィルムで撮っていました。それを自分で現像して、水洗して、乾燥してしまっていました。水洗時間は1時間くらいで、そのくらい洗わないと変色すると言われていまして。ドライエールという表面活性剤を薄めた液に浸したスクイズというガーゼで軽くふいて、自然乾燥していました。保管してからは、1年に1回は乾燥剤を交換していました。そのため、カビを生えさせることなく、今日までネガの保管ができたと思います。
 去年、養老川漁業協同組合に勤められていた方がこちらにある家を売って伊豆に引っ越されたんですね。いとも簡単に引っ越されたのです。私が「ずいぶん簡単だねぇ」と仲間に言うと、「何にもないから簡単なんだよ」と言われました。非常に簡単、車を買い替える感覚なんですね。今の人はそうだろうと思います。特に、都会に住んでいる方はそうだと思います。ところが、我々みたいに、昔から、先祖代々からこの地に暮らしていた人はそうはいかない。
 私の家は何代前からここに住んでいたかよく分かりません。高滝湖の近くに光厳寺という寺があるのですが、そこのお坊さんが酒飲みで、過去帳の管理を怠っていたためなくなってしまったのです。ですからうちが何代前から続いているのかも分かりません。
 人が引っ越す、水の中に土地が沈む、そして、新しく建てるということは大変なことです。その思いは大変だと思います。家だけではなく、お墓もありますので、お墓も移転しなければなりません。現在の市の取水場の反対側に墓地がありました。その墓地が移転する写真を撮りに行ったとき、「この子は早く亡くなったんだよね」と言った方(たぶんお母さんだと思うのですが)、いるんですね。この写真の女の子が、早く亡くなったんだよねと言われた女の子だと思います。お墓を掘ったときの写真はまだ見当たらないのですが、そのお母さんの言葉が、今も私の胸に沁みついています。
 少し話は変わりますけれども、明治・大正・昭和は非常に富国強兵、近代化を強烈に押し進めた時代だったと思います。明治の中頃から農村での生活が苦しくなってきたと言われています。新潟県などに行くと、「豪農の館」が見られますが、それは、非常に生活が苦しくなった農家の方がやむにやまれず土地を手放して、その土地を集めてできたのが、豪農の館だったと思います。
 昭和に入っても貧しい農家が数多くありました。昭和4,5年ごろは農業恐慌と言われてまして、農家の負債は国家予算の2倍くらいはあるのではと言われていました。教科書にはこういうことは出ていませんが、事実です。こういった貧しい苦しい中で我々の親やおじいさんたちは暮らしてきたわけです。そういう中で守ってきた土地、家屋ですね。そういうものをこのダムで失う。その思いは格別だったろうと思います。
代が変わってますから、おじいさん、おばあさんの気持ちとは違うと思いますけれども、
そういう歴史もダムの底に沈んでいると思います。そういった想いを残すために、私は写真を撮り続けていました。それが、ここでご覧いただいている写真と、今日ここに持ってきたこの写真であります。まだ不十分でありますけれども、皆さんに見ていただけて、大変嬉しく思っております。

前田:今、農業のお話がありましたが、農業についての想い出や記憶がある方はいらっしゃいますか。

比留川(吉):元々神奈川にいたのですが、ダムの工事が終わるころ、昭和59(1984)年から石神に来ました。年月が経ってもまだ、地元という気持ちが強くはないのですが、子どもたちはここが故郷で、自分たちがもっとここの歴史を知っていかないといけないなと思い、今日参加させていただきました。

宮原:私は、今も田んぼをやっています。元々農業をずっとやっていたわけではなく勤めていましたが、親が持っていた田んぼを継いでやっています。私が小さいころ、高滝ダムの湖底に沈んでいる田んぼは、しょっちゅう水害が起きていました。昔は、小田掛けと言って、稲を干している秋ごろにちょうど台風がやってきて、水が出て、流されてしまう。それを拾いに行ったりして、苦労をしていました。飼ってた牛が流されてしまったということもありました。
 平野旅館の水害後の写真がありましたが、あのように家々が破壊されて沈むなどの被害がありました。昭和45(1970)年の水害があってから一気にダム建設の話が進んだことを記憶しています。湖に沈んだ景色や道のあとなどは頭の中にありますが、いまは全く残ってないですね。加茂橋の開通式の時に、千葉県知事や市長らが来てくださり、親子3代続いている家の人たちが招待されて記念撮影したと思います。親子3代というのは、おじいちゃん、おばあちゃん、夫婦、子供で、縁起を担ぐ儀式だったと思います。その人たちの家もまた、残念ながら、どこも残っていないと思います。
 私の田んぼも今、耕地整理等が進んでいますが、ひねれば水が出るんですね。当時はそんなことはなくて、水の奪い合いとかもしていましたが、ダムができたおかげでひねれば水が出てくるようになりました。でも、肝心の農業をやる人が誰もいなくなりました。
 私の世代の悩みは、機械などが壊れたりしたら農業をやめてしまうということです。私の家もこの間の豪雨で、土砂崩れがあり、乾燥機やもみすり機が全部だめになってしまったので、やめようかとも考えましたが、もみすり機だけは農協に頼めたので、何とか続けられています。水田をやっている人たちの悩みは、ここから先をどうするかだと思います。
 記録映像には懐かしい人たちがたくさんでてきたのですが、あそこで必死に頑張ってここを守ろうとした人たちの想いと、今と将来とをどうやって繋げるかが自分の最大のテーマです。
 私もこの時代のことしかわからない。その価値観だけで判断していいのかと思っています。過去の価値観の中で、想いをどう残すのか、未来を繋げるためにどうしたらいいのか。
 その信念でつながるものがあるのではと思い、参加しました。

前田:今ある世界がすべてではなく、ここに至るまでの時間、記憶がものすごい価値を抱えています。湖ができる以前にあった記憶を掘り起こして、それを私たちがもう一度考えていくきっかけになればと思います。過去から学ぶことはあるわけで、その最初の一歩になればいいなと思い、今回の展示をしました。
 写真には、流鏑馬などのお祭りを映したものもあり、多くの方が参加している様子が伺えます。お祭りについてどうでしょうか。

平田:農業に関する想い出と言えば、昔は必ず子どもたちは手植えで田植えを手伝ったんですよね。今でも他の神社では田植え祭とかやっているので、そういうのは大事ですよね。
 10月には例大祭があります。私の神社(高瀧神社)には秋季大祭で三社の神輿がでます。自宅はお祭りのときは人が多くて大変でした。活気がとてもありました。
 今は流鏑馬の担当者がいないのですが、昔は流鏑馬のグループ、管理をする人がいて、その人たちがやってくれました。お祭り当日になると、裸になってお祭りに参加していましたが、今は、跡継ぎがいなくなってしまいました。

戸谷:ダムに水が溜まる前のことですが、高滝神社の秋季大祭は神輿渡御があります。その日神輿は上郷、宮本郷、平蔵郷が社殿より宮出しで長い階段を3か所下りて鳥居をくぐり加茂橋の方向に向かって進むんですが、屋台(出店)が左右にあり、雨戸板の上にリンゴやバナナが並んでいました。その他、多数の屋台がありました。当時は道が曲がりくねっていて、新しい鳥居まで行くのは大変な道のりでした。階段も長さ、高さがあるもので、昇り降りが大変でした。
 私は宮本郷の指揮者として渡御したことがありますが、ダムの水が溜まる前の年だったと思います。加茂橋を渡ってから田んぼに神輿を降ろし、川に入ったおぼえがあります。多くの人々がいて活気がありました。宮入のころは、夜になり、たくさんの提灯がきれいでしたね。舁夫の人たちが年齢問わずに参加されておりました。子どもさんが多かったような気がします。この高滝神社のお祭りが、今後とも繁栄していくことを願っています。

前田:激しいお祭りだったことが写真を見てもわかります。他に想い出はありますか。

深山(孝):私は子どものころから高滝に住んで育ったのですが、川の水が出ることはすごく怖いことでした。自分の家から見て、遠くに川が流れてるのですが、大雨が降るとその川の水が全部溢れて田んぼに入ってきました。私の家は高台にありましたが、その庭まで水が来たりしていました。そういう目に何回かあって、とても怖いなと思っていました。いよいよダムが出来て、それからは、水害は起きていないと思います。

前田:ダムが出来たことで災害がなくなったこともあり、反対運動とかは激しくなかったように見えますが、どうだったのでしょうか。

深山(孝):反対運動はあんまりなかったのではないでしょうか。災害が減ることを望む人が多かったと思います。水が出ることは本当に怖いことなので、ダムになってよかったなと思います。

高橋:赤い橋の下に家がありました。川が蛇行しているところに向かって田んぼが3枚と畑がありました。雨が降ったら危ないと家財道具を片付ける家でした。生まれはここなのですが、小学校4年生になって戻ってきました。昭和45年災の時もいなかったので、あまり災害の記憶がありません。
 田んぼを作ってたのですが、最後は桑畑だったことを記憶しています。桑の葉っぱを取って蚕を育てていました。肥沃な土地だったから、こうして加茂菜を作ったりすることができたと思います。
 お祭りの日は、学校が半日お休みになって、子どもたちはみな、お祭りを楽しみにしていました。露店が神社からずっと並んでいました。祖父が田淵で、里見のおみこしを担いでいました。

前田:昭和45年に起こった洪水の時の記憶をお持ちの方はいますか

深山(孝):神社の近くの方々は、家の中まで水が入ってきて大変だったと思います。私は高いところに家がありましたが、それでも座敷のところまで水が入ってきました。なので、みなさん大変だろうと思って見ていました。

宮原:でも、当時は元気があった。なんで元気があったかというと、人がたくさんいたということもあるけれども、そういうのに負けないくらい、高滝ダムができるということで、これからここが良くなるかもしれないと思っていたのです。
 先ほど加藤さんが言ったように引っ越しすることもできるんですよ。今、同じようなことが起きたら、それでもここに住むかというと、微妙ですね。家の後ろの崖がくずれることがあったら、もうここに住まなくてもいいんじゃないかと女房が言いました。
 反対運動はなかったのですが、子どもながら記憶しているのは、いくらダムを作っても、砂で30年後には埋まっちゃうよと言われたことです。今、それが現実になっていて、土砂が堆積していて、堆積した土砂を片付けるのにお金がかかっています。
 お墓のことを含めて、家族の在り方が変わってきていると思います。街中は明るくなったし、施設もできた。でも、人がどんどん減っていっています。橋の開通式の時には、これから高滝が良くなると思っていましたし、ましてや、自分の子どもも含めて人がいなくなってしまうとは思いもしませんでした。私も勤め人ですが、親の代とは違って、今は勤め人の時代ですから、どんどん個別化が進んでいくのではないかと思います。地域の繋がりというか、神主さんが悩んでいるのは、これからどうやって神社を維持していくことなのかなと思います。全く違う時代がくるのに対して、これをどうやって変えていくのか、そのベースになるのは家族の在り方にヒントがあるのではないかと考えています。

前田: 近年、人々が自然と共に生きてきた日本人のあり方があらためて見直されています。
市原は東京に近いけれども、農業が豊かで、自然が豊かで、私たちは、「首都圏のオアシス」という言い方をしています。東京から近いところにこういう里山があって、こういう暮らしがあるということに発見があると思います。深山さんは地域のことをいろいろとやられていますが、地域の課題に対して思っていることはありますか。

深山(康):地域のことというと、最近、加茂地区も含めて南市原に若い子たちが関わってくれることが増えてきたと思います。開宅舎といって、地域の空き家をどうにかしようという活動など、この地域に光を当ててくれる若者たちが増えてきたと思います。ただ、出ていく人と入ってくる人の比率を見ると、出ていく人たちが多いのが現実なので、思い通りにいかないのかなと思います。
 芸術祭とか様々なきっかけがあったと思うのですが、地元にいる僕たちが価値を見出せなかったことを、外から来た人たちが「それは素晴らしい」と教えてくれる機会が多くなってきていると思います。それをまた次の世代の人たちに伝えていくことが大事だと思っています。
 おふくろが高滝出身だから、子どものころにお祭りに連れて来てもらったりしていました。今回、こうして加藤さんが丁寧にまとめてくれた写真など、伝えるべきものは伝えていかなければならない。地域の中で、悪あがきかもしれないけれども、つなげていく次の力になっていくのではないかと思います。

比留川(多):私も35年前に神奈川から夫と共に移住してきました。地域の人が皆さん優しいんですね。家の仕事は養豚なので、変な目で見られると心配していましたが、皆さん偏見もなく、町会の一員として付き合ってくださったおかげで、子どもたちも健やかに育つことができたことが一番嬉しいです。とてもいい所だと思ってずっときました。
 最近地元の人たちと話しているのは、ちょっとしたことでも見てもらえる町医者がいたらということです。また、台風などの災害があったときにすぐに避難できる場所が近くにないので、何かあった時に行く場所などを知らせてあげることが、本当に人を呼ぶというか、安心して住むことにつながると思います。若い方や新しい方が来てくださるのは嬉しいのですが、そういう人たちと町会の住人が交流する場があるともっといいかなと思います。

前田:世代間というか、新しい人たちと古い人たちが繋がっていく場をどうやって作っていくかが大きな課題で、芸術祭はそういう場を作るためにやっているようなところもあると思います。

佐藤:市原市田淵にずっと住んでいますが、私なりには、すごく住みやすい町だと思います。
 私自身、田んぼや自然薯を育ててます。房総半島は癒しというか、疲れた人が逃げてくる場所という印象があります。平家との戦に敗れた源頼朝は房総半島で休息し、そこで力を得て、鎌倉で幕府を開いています。その昔は、縄文時代から人がずっと住んでる。房総半島は住みやすい場所だと思います。これから、私はいい方向に向かっていくと思っています。
 湖の記憶となると、上郷地区の神輿を担ぐ人は、お祭りの時は、上郷の宿に宿泊をしていました。私は10歳のころに初めて泊まらせてもらいにいきました。その宿にかやぶき屋根などがあったと記憶しています。そこから神社までは直線で、その道の両側に屋台があって、賑わっていたのを記憶しています。
 南市原の場合は、田んぼを営んでいる方がほとんどなので、お米の価格が安くなってしまうと生活が苦しくなって、どうしても働きにいかなければならない状況になってしまいます。これから農業をやる方は僅かだと思いますが、他のものと組み合わせて仕事ができるのではないかなと思います。
 今、小麦も作っているのですが、若い人でパンを作る人が引っ越してきてくれて、うちの小麦を提供しています。アート×ミックスでは、そのパンが月出校舎で販売される予定です。若い人たちがかなり入ってきてくれているので、応援していきたいと思います。

前田: この美術館は、美術を展示するだけではなく、地域の人が集まってくれる場になりたいと思っています。こういう場になったらいいなというアイデアがあったら教えていただければ嬉しいです。

小林:私は山口県出身で、45年にちょうど引っ越してきて、その辺の道のことは覚えています。川の橋が水浸しになったときに渡ったことも覚えています。古敷谷川の方には、タバコ畑がずっと続いていて、よく魚釣りをしました。
 私は、この美術館のおかげで、かなり人が変わりました。芸術や美術、そしてワークショップにたくさん参加させていただいて、こんなにも楽しいことがあるのかと思いました。
 私は五井に勤めに行っていますが、残念なことに、五井で、ここでこんな楽しいことがあると言っても、なかなか関心を持ってもらえない。地元で盛り上がっているのは嬉しいけれども、もっと市原市の五井の人たちが来てもらえたら嬉しい。
 一番初めのアート×ミックスで評判が悪かったは、どこに行っても駐車料金が1000円取られたことです。それで、アート×ミックスは南の人だけがやっているんだろうと。逆に五井で祭りとかをやっていても、南の人は関心を持っていない。市原市も南と北で分断されている感じがします。もっと市を挙げて、この美術館が憩いの中心となればいいなと思っています。

前田:今日は五井の方にできる新しい歴史博物館からも参加くださっているので、どういうことを考えられているのか、これから私たちとどう繋がって文化を発信していくのか、今日のお話がどのように活かされていくのか教えてください。

西:来年の秋オープンを目指して博物館を作っております。博物館で各地域の歴史を伝えていく拠点、繋いでいく拠点となっていきたいと思っております。そのために、皆さんで一緒になって歴史を継承していきたいと考えており、私たちも今、地域に出て行って学んでいるところです。
 いろいろと調査するなかで、私自身の想いでもありますが、歴史ってどうして学ぶ必要があるんだろう、地域ってなんでこだわる必要があるのだろうか、そこに住み続けることはどうなんだろうと考えています。先ほどの深山さんの「外から来た人が価値を見出している」という言葉からヒントを得たのですが、私は歴史に学びながら次の力にしていくということを思いました。
 私は東京出身ですが、ご縁があって市原にきて、いろいろと知る中で、私自身がいつも元気をもらっています。湖ができる前にどういう生活が営まれていたかを知っていくということ、それ自体に価値があり、地域の歴史、それを知ることが私たちの力になり、地域の力になり、日本の力になっていくのではと考えています。
 博物館で地域地域のいろんな歴史を繋いでいって、一緒になって未来に繋いでいきたいという想いで博物館を作っています。美術館は芸術の拠点であったり、博物館は歴史の拠点であったり、歴史と芸術は繋がるものと思いますから、一緒にできることを模索し、地域の皆さんと何ができるかを模索しながら、歴史を繋いでいきたいと思いました。

田村:歴史博物館は、能満という、埋蔵文化財調査センターの近くに建てています。私は元々は市内の小学校の教員で、今年(2021年)の4月に異動してきました。本日、加藤さんの写真を見せていただいて、昭和50(1975)年生まれなので、写っている小学生を自分と照らし合わせて懐かしさを感じました。
 先ほどからお話にでているように、世代間を繋いでいくことが、難しくて深いことだと感じています。繋いでいくということが、自分たちが子どもたちに伝えていく使命であるのかなと思いながらやっています。
 博物館の愛称がI’Museumというのですが、市原市全体が博物館だと見立てて、各地のフィールドマップを作っています。今年は、高滝地区を調査しています。来年にはできるので、ぜひ見ていただきたいです。市内全体を人が動いていくようなものが作れたらと思っております。

芝崎:西は古文書の担当、私は民俗の担当で、実は宮本常一の孫弟子にあたります。なので、芸術と民俗とは近い関係にあり、縁があると思っております。市原は皆さんご存知のように日本の縮図と言われています。臨海部には工業地帯があって人口が密集していて、南部には里山が広がっていて、人口密度も少なくなっていく。今の日本の状況に非常に近くなっていると思います。最近はコロナ禍ということで、田舎にも目が向いていますが、まだまだ模索しているところだと思います。
 私も西も市原市の職員ではありますが、市原に来てまだ5年しか経っていません。外からでしか気がつけない魅力があるかなと思っています。地元の皆さんは卑下されますが、市原市は非常にポテンシャルが高い土地だと思います。魅力がたくさんあります。他の土地から見ても、文化財も美しい景色もあります。博物館は、歴史と今を繋ぐ、人々を繋ぐということ、地元の方からお話を聞いて、それを若い子たちに伝えていくという役割を担っていると思っています。美術館とは手法こそは違いますが、向いている方向は一緒だと思います。一緒に協力してやっていければなと思っております。
 加藤さんの写真も貴重な資料となっていますので、ぜひ博物館でも活用させていただければと思っております。

前田:加藤さんいかがでしょうか。

加藤:感想を述べさせていただきます。まずは地元の人たちの参加が非常に少ない。こういう場には地元の方は出づらいのかなと思います。私も声を掛けましたが、来てくれませんでした。
 このダムの最大の問題は土砂の堆積です。毎年ユンボで土を上げて運んでますが、1回台風がくれば元に戻っていまいます。焼け石に水の状況です。抜本的なことをしなければならないと思っています。農業の問題は、なかなか我々では解決できない難しい問題だと思っています。

比留川(多):先日、市原市の観光ミカン園に行ってきたのですが、土手のようなところまでみかんを植えていましたので、すごい努力だなと思ったのと同時に、農業っていいなと思いました。いろんな職業がある中で、それぞれ皆さん向いている仕事に就くと思うのですが、都会で働くのが向かない人には、自然に向き合って仕事することもあります。せっかくの能力が発揮されずにいる若者が多いのではと思います。働ける場所も提供できれば、農業も大変ですけれども、それで食べていけるようになればいい。何をしていいか分からないという若者に、農業の素晴らしさを伝えられるような社会になればいいなと思っています。

前田:農業の問題は奥が深いですが、これからも考え続けたいと思います。
 11/19からは「いちはらアート×ミックス 2020+」が始まります。「やっぱりやってよかった」と言ってもらえるお祭りにしていきたいと思っております。市原湖畔美術館は、アートミックスの中核施設となりますので、お時間がありましたら、ここでお客さまに地域の記憶を話したりしてお迎えをしてもらえたら嬉しいです。
 今後もこのような企画を継続していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。