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フォーラム「湖の記憶、川の思い出」レポート

レポート2023.08.15
8月11日に当館多目的ホールにて、フォーラム「湖の記憶、川の思い出」が開催されました。出演者は、現在開催中の企画展「湖の秘密―川は湖になった」の参加アーティストである加藤清市さんと市原歴史博物館の学芸員である芝崎浩平さんです。会場には、20名ほどの参加者にお集まりいただき、地元の方々にもお越しいただきました。

私たちの地域の記憶をひらく

高滝ダム建設前(左)と建設後(右)

 本フォーラムの出発点は、美術館が佇む地域の記憶や思い出をひらき、これからどのように継承していくかを考えることでした。
 当館の位置する不入という地域には養老川と高滝ダムが人々の暮らしに密接につながっています。高滝ダムの建設と共に高滝湖ができて今年で33年。1990年の高滝ダムの建設により110戸の民家が沈み、その村が存在した場所が高滝湖となりました。

 かつて人々はどのように養老川と共に暮らし、高滝湖をめぐる地域はどのように歩み、変わっていこうとしているのか、目に見える形では存在しない村を私たちはどう捉えていくのか――私たちは美術館の開館10周年の節目としてそのようなことを考えたいと思いました。
 その歴史や人々の記憶を継承していくために、フォーラムではダムに沈んだ村の記憶を撮り続けた加藤清市さん、地域の民俗調査を続けてこられた芝崎浩平さんをゲストに迎え、地域に思いをもつ方たちと語り合いました。

写真から見る湖の記憶

芝崎さんが撮影した古敷谷の炭焼き小屋

 初めに芝崎さんがこれまで続けてこられた高滝湖周辺地域の民俗調査の一部をお話ししてくださいました。写真に映し出されているのは、今も存在する民家や炭焼き場、鍛冶屋、お寺など。現存する建物から当時の村の人たちがどのような暮らしをしていたかが想像できます。美術館近隣の光厳寺には、あの葛飾北斎に影響を与えたとされる彫り師「波の伊八」の欄間彫刻があり、企画展でも展示されている大岩オスカールの壁画のモチーフにもなりました。芝崎さんはこの地域の調査はまだまだ足りていないと述べ、地元の方々からお話をもっと聞き、引き続き調査を続けると意気込みました。

 続くセッションでは加藤さんの写真から当時の人々の生活を振り返りました。加藤さんは、不入に生まれ、以来この地域に住まれています。高滝ダムの建設が決まった時から現在も地元の写真を撮り続けてきました。そんな加藤さんは自身の活動を「私の写真は説明ではなく、作品として撮っています。」と語り、写真は説明するために機能しているのではないことが自分の原点になっていることを話しました。今回も展覧会でも1500点あるうちの中から33点を展示しています。作品を選ぶことは加藤さんにとって難しいことであり、《水没した村の記憶》という作品タイトルの通り、当時の村を表す核となる写真を今回展示することに決めたそうです。

 加藤さんは、このフォーラムのために昔撮った写真を新たに現像して持ってきてくださいました。その写真は地元の人たちの記憶に残っている場所であり、会場からは「これは○○さん家だ。」「この人は○○さんだ。」「あれは自分が生まれた家だ。」といった声が上がり、加藤さんと地域住民の方々の記憶がつながる瞬間がありました。当時は、名前も知らずに撮っていた人たちの顔と名前が今日一致した、と加藤さんは述べました。

川の思い出

加藤清市《川の子》

 加藤さんの作品の中に養老川で少年たちが遊んでいる写真があります。養老川は、この地域にとって大きな存在であり、この写真から川遊びの思い出について話が広がっていきました。田淵在住の佐藤有一さんは、子どもの頃友人と川まで遊びに出掛け、釣りをしたり泳いだ思い出があると話されました。自分の釣竿が欲しくなり、釣竿をつくる竹細工職人のいる月出までの江戸道を片道1時間かけて歩いて買いにいったそうです。旅館加茂城の征矢貫造さんは、当時は、水中眼鏡がなかったので水中で目を開けてもぼやけた景色しか見えなかったのが、水中眼鏡が登場してから鮮明に見えるようになった感動を今でも覚えていると語りました。
 そのように川には楽しい思い出がある一方で、かつて養老川は「あばれ川」と称された通り住民の生活に大きな影響を与えたことも忘れてはいけません。小学生まで高滝に住んでおられた牛久在住の深山孝子さんは昭和45(1970)年7月1日、「45年災」と言われる養老川の氾濫による水害について、「うちは高台だったので水が上がってくることはなかったが、周りの家は水に食われてしまって困っているのを見ていた。その後ダム建設の話が出てきて、(養老川については)子どもの頃からあんまり良い思い出はないんだけど…」と自身の川の思い出を語ってくださいました。川で遊んでいたのは主に男性で、女性たちは川で遊ぶことはあまりなかったそうです。
 45年災で高滝ダムの建設計画が一気に進み、それは住民の生活を一変させました。110戸の民家が取り壊し、さら地にした状態で移転を迫られました。移転しなければいけなかったのは、住居だけではありませんでした。加藤さんは民家と共にお墓の移転の瞬間もカメラに納めていました。「湖の秘密―川は湖になった」展では、その時の写真も展示しています。遺骨を慎重に土の中から掘り起こす様子は、緊張感が漂っています。加藤さんは、当時のことを写真を撮るのも気後れするような雰囲気だった、と振り返りました。養老川にまつわる住民の方々の体験談を伺う中で、養老川がもたらした恵みと痛みがどのようなものであったのかが垣間見えるようでした。

 後半では、芝崎さんが調査をしているこの地域の風習について加藤さんの写真を元に住民の方々が当時のことをお話ししてくださいました。特に「百万遍念仏」や「花見」という風習は、地元の方々の記憶にも残るものでした。「百万遍念仏」は、定められた期間に100万回念仏を唱えることにより、願いを叶えたり亡くなった方を供養する地域信仰として国内各地で独自の変化を遂げてきました。高滝湖周辺の地域にもこの信仰は広まり、加藤さんの作品には女性たちが輪になって数珠を持ち上げながら祈りを捧げる様子が映し出されています。山口在住の根本裕子さんは、この写真の舞台は自分の地元の公民館であると話しました。「もう亡くなられた懐かしいおばあちゃんたちの顔がたくさん。今ではお年寄りの数が減って、数珠が畳にくっついてしまいもうやらなくなった。」と語りました。
 一方、「花見」は3月3日に子どもたちが山に集まりそこで自分たちの陣地をつくり飲食する昭和30年前半まで続いたこの地域独自の風習です。実際に子どもの頃に経験した征矢さんは、小学生の時に今の高滝神社の近くの山で友人たちと秘密基地をつくったり、食べたりしていたと当時を振り返りました。花見はピクニックのような行事だけではなく喧嘩の激しさもあったようで、根本さんは「主人の話ですと、そんな悠長な花見とかではなくて、落とし穴の中をつくったり、陣取り合戦があって汚い手段まで取ってやっていたよう。武器のようなものをつくったりしたという話を聞いた。親は、その日のためにご馳走をつくって持たせてくれたと言っていた。」と説明してくれました。
 現代には残っていない風習や文化も、芝崎さんの調査や加藤さんの作品、地元住民の語りを通して当時の記憶や思い出が蘇り、それらを知らない人たちにも共有することができました。

さいごに

加藤清市《水没した村の記憶》 撮影:田村融市郎

 フォーラムの最後に芝崎さんは、「この地域は非常に魅力的なものがたくさんある。住民のみなさんが気付いていない魅力は掘り起こせばたくさん見つかる。」と述べました。日常では何気なく流されてしまうこと、習慣や暮らしそのものが芝崎さんにとって宝物に見えるようでした。
 「湖の秘密―川は湖になった」展では参加アーティストそれぞれが独自の視点で地域を捉えています。作品の数々を観る時、私たちの地域にはこんな素敵な秘密があったんだと驚かずにはいられません。

 今回のフォーラムでは、住民のみなさんと過去を振り返りました。そこから見えたのは、養老川によって失われたものや生まれたものが現在の地域をつくっているということでした。地域の人たちの記憶や思い出は、加藤さんの作品を通してそれを体験していない世代にも残していくことができると思います。歴史を追うだけではわからない、高滝湖周辺の住民の方々の体験がひらかれた貴重な時間となりました。

参加

加藤清市(出展アーティスト)1938年千葉県市原郡高滝村不入生まれ。以来84年この地に暮らす。
1963年川崎製鉄株式会社へ入社後、1967年から会社の業務上で写真撮影、現像、プリント等に携わったことをきっかけに写真全般に関心を持ち独習で写真を学ぶ。1969 年、日本報道写真連盟(毎日新聞)に加入。1990 年、ニッコールクラブに入る。2018 年、ニコンプラザ新宿 THE GALLERY にて個展「ちゃーちゃんありがとう」。2021 年、市原湖畔美術館 戸谷成雄展関連企画展「湖の記憶」にて、水没する前の村の写真を発表。2022 年、ニコンプラザ東京 THE GALLERY にて、個展「水没した村の記憶」。
芝崎浩平(市原歴史博物館)1975年千葉県いすみ市生まれ。神奈川大学歴史民俗資料学研究科で歴史や民俗学を学び、同大学にある日本常民文化研究所や、世田谷区立の民家園、市川歴史博物館、千葉県立房総のむらなどで学芸業務に充実として勤務の後、市原市の民俗担当学芸員として6年目を迎えている。