田中信太郎展「風景は垂直にやってくる」追悼懇談会

レポート2020.08.29
現在、市原湖畔美術館で開催中の田中信太郎展「風景は垂直にやってくる」。8月9日(日)にはオープニングと田中信太郎さんが亡くなられてから一周年となるのを記念して追悼懇談会が開催されました。コロナ禍、そして猛暑にもかかわらず、田中さんと近しかった方々が集まり、様々な思い出をなごやかに語ってくださいました。
以下、発言してくださった方々の言葉を紹介します。

森司さん(アーツカウンシル東京)

僕は、キュレーターとして田中信太郎さんの作品を扱ったことはなく、田中さんの作品を“見ている”人でした。

図録にも寄稿している国立国際美術館の中井康之さんと、東野芳明さんが創設された多摩美の芸術学科の同級生で、中井さんが1985年に《TAMA VIVANT》に田中信太郎さんを出すということで、一緒に日立にある田中さんアトリエに行きました。初めてお会いした日は、アトリエでお話を伺い、日立の駅前でお食事をし、その後も時々中井さんとお酒の席に同席させてもらいました。その後、僕は水戸芸術館のキュレーターになり、茨城県と縁をもつことになるのですが、それが初めての茨城行きでした。

東京画廊や、中井さんが企画した国立国際美術館での展覧会も見ていますが、一番驚いたのは、やはり赤トンボの作品です。こういう世界にまで表現が移動していくんだ、と新鮮であると同時に、非常に若くしてデビューし評価を得たアーティストが、自らを脱ぎ捨てながら先に進んでいく力強さも感じました。

信太郎さんの最後の記憶は、アトリエでアーティストとしての時間を静かに過ごしていらっしゃる姿です。今、僕は美術館を離れて、若いアーティストと一緒にグループワークやソーシャリー・エンゲージド・アート的な仕事をすることが多いのですが、信太郎さんは、アトリエに籠り、自らの創作を突き詰めるスタイルのアーティストとして、僕と中井さんがキャリアを始める原点にいます。僕たちの世代にとって、なつかしい出発点となったアーティストです。

鷲見和紀郎さん(アーティスト)

僕と信太郎さんは、歳が10歳離れている大先生と弟子という関係でした。Bゼミの先生と生徒として出会いました。田中さんはまだ30代、僕は20代でした。田中さんは美大を出た方ではなく、僕は美術大学を中退した直後で、どんな教え方をするのだろうと興味がありました。この先どうしていいかわからなくなっていた若者に対して、田中さんは、言葉とか歴史的なことを教育するのではなく、美術の実践的なこと、特に、ものにどう触るのか、ものをどう移動するのか、表面をどうするのかなど、具体的で視覚的な、手で触り、肌で感じることの重要性を教えてくれました。

田中さんはお酒が好きで、安くて昼間から飲める飲み屋に本当に詳しかった。飲み屋である時、近くで田中さんの手を見たときは驚きました。アーティストの手ではなく職人のような手だったからです。常に何かを触り、磨いていたから、とても分厚い手でした。田中さんは、制作の中で常に磨くという行為をしていました。表面は、変化することによってがらっと世界が変わって見える―僕も作品を作っていてそれを実感します。

僕はその後、田中さんのアシスタントをしつつ、自分の作品を試行錯誤することになるのですが、Bゼミの生徒にはそういう人たちが多かった。つくりながら、こうしていけばいい、と示してくれる田中さんはリアルな教育者であったと思います。

田中さんは映画が好きでした。私がドイツのヘルツォークの映画に感動したと言うと、田中さんは「ヘルツォークもいいけど同時期のダニエル・シュミットの《ラ・パロマ》もいいよ」と言いました。ヘルツォークの一直線でミニマルな映画に対して、シュミットはとても複雑でエロティックで難解でした。

長い間、田中さんはミニマルな強い表現をつくってこられたけれど、今回の展覧会タイトルにもなっている《風景は垂直にやってくる》から作品ががらりと変わりました。そこには複雑なスリーディメンションもあれば、平面もあり、周りの空間も問題になってくる、単純なものと複雑なものがシュミットの映画のように存在していました。田中さんは「複雑でありながら、そこを通して見えるミニマルな世界もあるんだよ」と教えてくれました。尊敬すべき先輩であり、作家でした。

牛島達治さん(アーティスト)

田中信太郎さんとのおつきあいは、1981年、田中さん目当てでBゼミに入ったのが始まりです。その年、田中さんは病気になられたのですが、高校生の頃か、20歳頃、美術雑誌のインタビューで「ものは無垢でなければならない」という田中信太郎さんの言葉が響きました。どういう人を指針に美術に入ったらいいかを探っているときに巡り合った人でした。どこで会えるか探していたら、Bゼミで先生をやっていることが分かり、面接を受けに行ったのです。

Bゼミには僕のような浪人くずれから、美大を中退した人、プロの建築家まで、本当に多様な人がいました。田中さんに僕が作品を見せるとものすごく褒めてくれて、それで舞い上がってしまったりしました。田中さんはBゼミの授業には、毎週、日立からライトバンで何かしらを詰めて持ってきてくれました。干からびたペンキの缶、ゴムの塊、はんだごてであったり、無垢の物体や道具も持ってきてくれました。道路状態が今ほどよくない中、それには本当に感謝しています。

僕は2003年頃から美術大学で非常勤講師をやっていますが、信太郎さんが教えてくれた姿勢を大事にして教えています。なので、いつも無垢の物体を大学に持って行っています。

信太郎さんは「自分は彫刻家ではない」と言っていました。おもしろいのは、信太郎さんがどこからも等距離で離れる、どこからも等距離で近づく、どこにも属さないものを求めているところです。そういうことが、無垢という言葉に対する答えの中に入っていると思います。信太郎さんは捉えどころのない人で、最終的には詩人として存在していたのではないかと思っています。物を動かしたり置いたりするだけで表現をしていたのではないでしょうか。

信太郎さんが亡くなられたということを風の噂で聞いて、ずっと気になっていた府中インテリジェントパークにある信太郎さんの作品を見にいきました。それは《波の門》という作品でした。キャプションのプレートには、制作に携われた方々のお名前も記載されていました。田中さんは制作に関わった人に敬意を持っていました。それは、Bゼミの学生たちにも向けられていました。

倉俣美恵子さん(クラマタデデザイン事務所)

倉俣史朗と田中信太郎さんは若い頃から親しくお付き合いさせていただきました。倉俣の渋谷西武にあったカプセルコーナーでご協力いただいたり、後半はルッキーノに信太郎さんの作品を置かせていただいたり、アーティゾン美術館となったブリヂストン美術館にもインテリアの中に信太郎さんの作品を入れさせていただきました。とても長いお付き合いでした。1991年に倉俣が突然亡くなった後も、家族ぐるみでお付き合いさせていただいています。

2016年には県北芸術祭に田中さんが参加され、一緒に作品を見て回り楽しかった思い出があります。2017年にアトリエを訪問し、ゆっくりとお話しすることができました。信太郎さんから制作についてちゃんとしたお話を聞いたことはなかったのですが、その時、自分は永遠に残す作家というイメージは当初からなく、作品はとても儚いものであり、残らなくていいんだというようなことをおっしゃいました。そこは、倉俣も似ているところかなと思いました。「国立国際美術館が作品をコレクションしてくれたのがとても嬉しいよ」という言葉でその会話は終わったのですが、作家としての生き方のお話を伺えたのは良かったなと思いました。

音楽と映画に関しては信太郎さんとお話ができました。晩年、信太郎さんはアトリエにもポスターが貼ってある「ニーチェの馬」という映画を気に入っていらっしゃいました。DVDを貸してくださったのですが、人間の根源を問われるような重い内容の作品でした。それに対して感想を伝えることはできなかったのですが、どんな気持ちであの映画をご覧になられたのかが気になります。

アトリエの音響が素晴らしく、ゆったりと音楽を聴けるのは羨ましいなと思いました。ヨーヨー・マが2016年にサントリーホールで演奏したバッハの無伴奏組曲に感動して、信太郎さんにいくつかの組曲のCDをお持ちしました。信太郎さんは、カザルスが一番好きだけれど、今度ヨーヨー・マが来日したら一緒に行こうよと言って下さったのですが、それが実現できなかったのをとても寂しく思っています。

いまも信太郎さんの電話の声がこのへんに聞こえるような気がしています。きっと天国で倉俣といろんな話を楽しんでいるんじゃないかなと思います。若い頃に亡くなられた三木富雄さんも一緒に、今日のこの光景を見ているのではないでしょうか。

光田ゆりさん(美術評論)

今まで話してくださった方々のお話を聞いて感激しています。こうして皆さんのお話を聞けて幸せだと思いました。私は、田中先生と個人的に親しいというわけではないので、美術館の学芸員っぽい話になってしまうかと思いますが、お許しください。

田中先生は謙譲というか、威張った感じがしたことは一度もありませんでした。ひょうひょうとされていました。そんな田中先生のダンディズムというのはものすごいものだったな、と後になって感じます。ダンディズムとは、自分にはないものなのでうまくは言えないのですが、非常に徹底されていたと思います。ご自身の美学に関する指針が明確におありで、確信的だったと思いますが、いつも軽やかにされていました。

鷲見和紀郎さんが話されていた「表面を磨く」「手が大きい」という件ですが、田中とも作品の表面の張力というのは、本当にすがすがしいほどで、研ぎ澄まされた感じがいつもいたしました。その研ぎ澄まされた奥に、無垢さの実感や、どうやってものを触るか、どうやってここからここに動かすのかなど、具体的なものの在り方と関わるための彼の美学がなかったら、ああはならないんだろうなと思います。

先ほど、「僕は彫刻家ではないよ」と語っていらしたと聞いて、私もそうなんだろうなと思います。絵描きから出発されていても、あまりにもモノを深く知っておられて、モノの存在とか表面とか、モノと人間との間の接点のことをあまりにも美学をもって考え抜いておられましたので、画家というだけではすまないと思うのです。今回の図録のテキストの中で私はそこに「画家の彫刻」という言葉を使いました。画家という言葉と彫刻という言葉をくっつけただけなのですが、表面に対する異常な緊張感のある画家の美学、とモノの存在に関する非常に深いお考えからくる彫刻的あらわれが、融合されているんだろうなと思ったのです。

言葉に関してもそういうところがあって、今回、先生のお言葉が壁面に展示されていますが、単純な語の短い文章を書かれます。複雑な長文、難しいお言葉は使いません。でもそれがダンディズムのせいで、お考えが深いために、それを余さずぴたりと言葉にするのは難しいのだろう、と。逆に思いを押さえに押さえて、圧縮して閉じ込めて、短さの影に滲み出させるような、ああいう言葉使いになられるのだろうと思います。

田中先生は言葉に対する態度だけでなく、こうしたことがあらゆる面で同じようにみられると思います。だからミニマルな感じがします。でもそれは中に何もないのとは逆で、ありすぎるのではないか、そう作品を見て感じます。本当にかっこいい先生だなと思いました。

私も、映画「ニーチェの馬」を、「観ない奴はだめだね」といわれたので観ました。すごく台詞が少ない映画なのですが、無垢な金属のように重い感じが、田中先生の作品と似通っているではないかと感じました。

池田修さん(BankART1929代表、本展企画協力)

田中信太郎さんとかなり長い時間、つかず離れず、長く付き合ってきました。Bゼミの学生から始まって、ヒルサイドギャラリーの担当をしていた時には展覧会やコミッションワークをやっていただきました。BankARTでは展覧会をやっていただいたり、BankARTスクールの講師をやっていただいたりしました。僕と信太郎さんとの関係は、図録にフラムさんとの対談が載っているのでそちらを見てもらえたらと思います。

信太郎さんは、遠くから見ている、見られているという感じの人でした。モノを見るときに近くでは見ない、遠くから見ていました。ヒルサイドギャラリーでの展覧会をお願いしたときも、ヒルサイドの前の歩道橋からギャラリーを見ていました。

お昼ご飯を食べに行ってもその時は何も言わず、1カ月くらい経ってから「あそこのお店美味しかったな」と言うことがありました。距離感に非常に独特なものがありました。それがすごくステキでした。

ダンディズムというお話が出ましたが、田中さんはきれいな女性が好きで、奥様に似た感じの包容力のあるふくよかな女性がいると、すぐそばに行っておられました(笑)。

とにかく、大好きな、大好きな先生でした。

坂井和洋さん(BankARTスクール受講生)

BankARTスクールを50回以上受講しています。そこで、田中信太郎さんのゼミ「てのひらサイズワークショップ」を受講したのがきっかけで、田中さんのファンになりました。2時間の講座を8回やって1セットのクラスでした。夜の7:30から始まる講座で、田中さんは6時くらいから飲み始めて、いい塩梅になった頃に講座が始まる。1つの材料、発泡スチロールや金網を与えられ、2時間で1つの作品を10人くらいの生徒と一緒に作りました。とてもいい時間を過ごさせていただきました。

田中さんのトークが面白いので、話を聞いているだけで、ほわーんとした時間が過ぎていく。私は普段は公務員で、アートとはまったく関係のない仕事なのですが、そんな私にも声をかけてくださり、そのときは何も作らなくても、「それでもいいじゃないか」と言ってくださいました。また、何か作ったら「それいいね」と褒めてくれました。

8回の講座が終わって、せっかくだから展示しようということになり、ギャラリーを借りて展示し、値段をつけて売ることになりました。田中さんも出してくれることになり、「僕の作品は売れるから、売れたらみんなにふぐをおごるよ」と言われて、田中さんの作品だけが売れて、浅草でふぐをごちそうになりました。いい思い出です。

今でもみんな仲良くてメンバーとの交流が続いています。田中信太郎さんのおかげでこのようにいい経験ができたと思っております。

牛島智子さん(アーティスト)

田中信太郎さんとの出会いはBゼミで、もう40年前になります。ずっとよくしていただきました。

家の事情などもあり、福岡県の八女に活動を移して2、3年してから、田中さんから「八女茶が手に入らないか」とお電話があり、妹の嫁ぎ先が手摘みのとてもいいお茶をつくっているのでお送りしました。それから毎年4月の終わり頃になると、今年も頼むとお電話を頂戴し、それが20年続きました。お電話をいただくと必ず、「牛島君、どうしてるか」と訊いてくれて、田舎から出ておいでと、はっぱをかけられました。最初は田舎でも頑張れる、と思っていましたが、田中さんとの1年に30分の電話のおかげで、ペースを落とすことなくやってこれたのだと思います。

Bゼミの最初の頃、鉄をひたすら磨くゼミを覚えています。ゼミのことはあまり覚えていないですが、授業の後にお酒を飲んでお話したことは覚えています。大きさの話をしたことがありました。ベニヤのサブロク(3×6)板はあまりきれいじゃない、障子にしろ、畳にしろ、そのサイズから来ているから、その大きさはあまりきれいじゃないと言っていました。それよりも200前後がきれいだとか、具体的に作っているからこそ出てくる言葉が多かったです。福岡に帰り、私は大きな作品を作らなければと思っていて、先生との電話で、「ピカソのゲルニカのサイズが当たり前で、クジラは25メートルだからそれくらいまではつくらないと」とカラ元気で言ったことがありました。先生は、「ちょっと下がって視界に収まるサイズが責任を持たなきゃいけないサイズだと思うよ」とおっしゃいました。作っていて腑に落ちるような言葉をたくさんいただいた気がします。

去年はお茶のお電話がなく、こちらからお電話をしたら、奥様が出られて入院されたと聞き、その後、訃報を聞きました。

いつも電話越しに「牛島君、元気か」という声が聞こえないのが寂しいです。「風景は垂直にやってくる」ではないけれども、すっと田中先生の声が聞こえてくるというか、これからは作品集を見ながらそういう声を思い出せるといいなと思っています。

渡邊映理子さん(田中信太郎氏長女)

Bゼミの方々や、父から学んだ方々は聞いたことがあるかと思いますが、父の語録というものがありまして、それが未だに自宅の壁に貼ってあります。

意味のあるところに意味はない 意味ないところに意味は宿る

不条理に身をゆだね 不可解に埋没せよ

矛盾の無い表現は矛盾している

失敗のない人生は失敗である

逸脱からすべてが始まる

知性ではなく知性にあこがれよ

無言の意味 無言の伝達 沈黙を拍子せよ

無駄にない人はすでに無駄の人

これが父の語録で壁に貼ってあり、私も目にしています。なんとなく父らしいなと思いながら見ています。

今日は8月9日ですが、昨年の明日、8月10日に父がぼそっと話した言葉です。

人間を数億千万の粉にして
全ての個性をなくして
人間を均等化して
宇宙に月に火星にも
人間の社会を生存化させる

その社会の動物に
死んだ名前がわかる人間の
たったひとりが田中信太郎である
宇宙の人類の都市すべて白である

記憶のなかでの言葉は
だれも理解できない
理解できるのは
たった一人である

父は、コールタールや炭で、黒い作品を発表してきましたが、こんな構想を話してくれました。

「白い作品、白いお米で作る作品を作りたいんだよ」

きっとあちらでも、もう活動を始めているのでしょうか…

今日は父の大好きな人が集まっていらっしゃるので、おそらくここらへんを浮遊していると思います。アトリエの中で止まっていた作品たちがここにきて、新しく動き出した、生き生きとしているところを見ていきたいですし、見ていただきたいと思います。

ありがとうございました。展覧会に関わってくださった皆さまに感謝しています。

北川フラム(市原湖畔美術館館長)

田中さんは垂直の線を立て、そこから空間がバリアを張っている、その様子をいつも美しいと思っていました。私は1960年代の終わりに、東野芳明さん、原広司さんと一緒に一瞬お会いしたことがあります。その後、ヒルサイドギャラリーで展覧会をさせていただき、私たちは田中先生の作品に10数回、関わらせていただきました。しかし、私個人は先生とは言葉を交わしたことはほとんどありませんし、お食事をしたこともありません。ですから、皆さんのお話を伺って羨ましいなと思いました。

私は、美術をやろうとして東洋美術史や仏像のことなどを勉強していましたが、これまで皆さんがお話されたような現代美術に関わった実感はありません。それを抜きにして、現代美術と言われているものについて書かれているものを考え、美術を広い古典的な文脈で理解しようとしてきた人間です。

絵画の六法に「随類賦彩(ずいるいふさい)」という言葉がありますが、田中先生の場合には、色はおのずとついてくる。「応物象形(おうぶつしょうけい)」ということでいうと、モノを掴んで、モノそのものの性質が出てきています。「経営位置(けいえいいち)」―作品のバランスの良さ、空間との関わりが見事で、空間をうまく動かしている感じがあります。田中先生は、とにかく技術的な総合点で断トツのアーティストです。最後に「骨法用筆(こっぽうようひつ)」―田中先生の作品は、どんなものもぴしっと立っていて、光田さんが言われたようにまさにダンディズムというか、ピシッとしていたと思います。

お願いした作品で、できていないものがひとつあります。横浜で12点くらい立体を並べていくという作品ですが、いつかどこかのチャンスで実現できたらと思います。

近くにいても話すこともなく、お食事もしていませんが、いろいろな影響を享けてきた者として展覧会を実現できたことを嬉しく思います。

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