僕は、キュレーターとして田中信太郎さんの作品を扱ったことはなく、田中さんの作品を“見ている”人でした。
図録にも寄稿している国立国際美術館の中井康之さんと、東野芳明さんが創設された多摩美の芸術学科の同級生で、中井さんが1985年に《TAMA VIVANT》に田中信太郎さんを出すということで、一緒に日立にある田中さんアトリエに行きました。初めてお会いした日は、アトリエでお話を伺い、日立の駅前でお食事をし、その後も時々中井さんとお酒の席に同席させてもらいました。その後、僕は水戸芸術館のキュレーターになり、茨城県と縁をもつことになるのですが、それが初めての茨城行きでした。
東京画廊や、中井さんが企画した国立国際美術館での展覧会も見ていますが、一番驚いたのは、やはり赤トンボの作品です。こういう世界にまで表現が移動していくんだ、と新鮮であると同時に、非常に若くしてデビューし評価を得たアーティストが、自らを脱ぎ捨てながら先に進んでいく力強さも感じました。
信太郎さんの最後の記憶は、アトリエでアーティストとしての時間を静かに過ごしていらっしゃる姿です。今、僕は美術館を離れて、若いアーティストと一緒にグループワークやソーシャリー・エンゲージド・アート的な仕事をすることが多いのですが、信太郎さんは、アトリエに籠り、自らの創作を突き詰めるスタイルのアーティストとして、僕と中井さんがキャリアを始める原点にいます。僕たちの世代にとって、なつかしい出発点となったアーティストです。